2021年02月12日
本尊・阿弥陀さまF
2021年02月01日
本尊・阿弥陀さまE
2021年01月22日
本尊・阿弥陀さまD
2021年01月20日
本尊・阿弥陀さまC
2021年01月11日
本尊・阿弥陀さまB
2021年01月07日
本尊・阿弥陀さまA
2021年01月06日
本尊・阿弥陀さま@
2020年07月24日
ピンポンダッシュはダメよ(笑)
たまには作法のことについても、述べたいと思います。少し長いです。
これから、お盆を迎えるにあたって、ご実家やご親戚の家を訪ねる方が多いと思います。
お盆なら特に、お仏壇にもお参りされるでしょう。みなさん、お仏壇の前に座ったら、まず何をしますか?
おそらく「チンチーン」とリン鳴らすと思います。そして、手を合わせて礼拝。終わり。
あまり、やかましいことは言いたくありませんが、これは作法としては「ブッブー」です。
おそらく神社の鈴を鳴らす作法と同じように考えておられる方がほとんどだと思います。
神社では、鈴を鳴らして邪気を払う、という意味と、神様をお呼びする、という意味があるそうです。
仏壇でリンを鳴らす方は、ご先祖さまに「来ましたよ」とご挨拶しておられるのであると思います。
でも、必要ないんです。
「来ました!」とお呼びせずとも、知らせずとも、いつも私のそばに南無阿弥陀仏となり、ご一緒下さるというのが浄土真宗の考え方だからです。
本来リンは、お経をとなえるときに鳴らすもので、音を導いてくれるものでもあります。
それぞれのお経は、初めに出すべき音が決まっています。
私たち僧侶は、リンやキンの音で音を探っているんです。
ですので、鳴らしたからには、お経を読むのが正式な作法です。
リンを鳴らして、お経を読まずにその場を去るのは、ピンポンダッシュと一緒です(笑)
「鳴らしたらいけない」というわけではありません。本当の意味を知っていてください。
そしてお経を読む時間がなくても、「南無阿弥陀仏」の短い六字にはすべての功徳が込められているので、せめてリンを鳴らしたのであれば、「南無阿弥陀仏」とおとなえください。
さぁ、この夏からやってみましょう!
2020年05月02日
ヨゲンノトリと共命鳥(ぐみょうちょう)
お釈迦さまは「仏説阿弥陀経」というお経の中に極楽浄土には六種類の鳥が住んでいると語られます。
その中の一羽である「共命鳥」という鳥についてお話させて頂きます。「命を共にする鳥」と書きます。どのような姿をしているのかというと、身体は一つに対して頭が二つある鳥です。
この鳥には利点があります。頭が二つありますので視野が二倍です。他の鳥よりも、おいしいものをすぐに見つけることができます。しかし、欠点もあります。身体は一つでも頭が二つありますから、それぞれの考え方を持っています。一方が食べたいと言えば一方が飲みたいと言い、飛びたいと言えば休みたいと言う。いつも意見が合わずお互いの口ばしで顔をつつきあい、いつも顔は傷だらけでありました。仮に二つの頭をA君とB君と呼びましょう。
毎日続くケンカでついに我慢のできなくなったA君は「どうして僕は自分の思い通りにしたいのにできないんだろう。そうだ、あいつがいつも僕の邪魔をするんだ。あいつがいなくなればいいんだ。」A君はB君に毒の入った果物の実を食べさせてB君を殺してしまおうと思いつきました。
ある日、空を飛んでいたらA君がB君に言いました。「何かすごく美味しそうな果物の実があるよ。あれを食べに行こうよ。」その果物の前までやってきました。いつもなら、「僕が先だ!俺が先だ!」とケンカを始めるのですがA君はそれが毒であることを知っています。「今日は君が先に食べなよ」A君がいうと「なんだかいつもと違うね、でもお言葉に甘えて先に食べさせてもらうよ。」と言いながらB君が一口食べました。「美味しい!なんて美味しいんだ!すごく甘いよ。」
しかし、次の瞬間には目の前が段々と霞んできました。そして、息が荒くなり口から血を吐いて意識が遠のいていきます。「僕は毒の入った実を食べてしまったようだ。たぶんこのまま死んでいく。でも最後に君に伝えたいことがあるんだ。君とはケンカばかりだったけど、いつも君の判断は正しかった。君がいてくれたから僕はここまで生きてこられたんだ。本当に有難う。」そう言い残してB君は力尽きました。
B君が死んだことによってA君の目的は達成されました。しかし隣で今まで共にしてきた命が絶え、最後に感謝の言葉をもらったA君は「僕は何てことをしてしまったんだ!」と自分のしたことに後悔します。
ですが、すぐに今度は自分の目が段々と霞んできました。そして、息が荒くなり血を吐いてしまいます。A君はようやくあることに気付きました。
「そうだ、僕たちは頭は二つあったけれど、身体は一つだった。彼を殺してしまうということは僕も死んでしまうということだったんだ。」
ついに息絶えそうになるA君を阿弥陀さまが見ておられました。「最後に何か言い残すことはないか?」と、質問されました。
「はい、私は大変愚か者でした。私は今まで自分ひとりで生きてきたつもりでした。しかし、今ようやく気づきました。私は彼がいなかったらここまで生きてこられませんでした。そして、他の命を奪うものは我が命をも奪い、他の命をいたわるということは我が命をいたわるのだということをこの場に及んで初めて知りました。」
そのA君の言葉を聞いた阿弥陀さまは「そうか、しかしまだ遅くない。そのことが分かったのならば良い。お前たちをもう一度極楽浄土の鳥として生まれさせてやろう。そして、その姿かたちをもって多くの人たちに、いま気づいたことを教えてやってくれないか?」とおっしゃられました。
こうして、共命鳥は極楽浄土の鳥となり、お経の中に出てくるのです。
さて、この鳥が私たちに伝えようとしていることは何でしょうか?
世間では、神社や寺院にお参りし、柏手を打ち、手を合わせ、護摩を焚いたりします。そのほとんどは自分の願い事を叶えるための行為であると思います。それぞれの寺社仏閣のご利益があります。
しかし、このお経の中のごく一部である共命鳥の話でも分かるように、浄土真宗の念仏やお経には願い事が叶う方法や手段はどこにも書いてありません。
亡くなった先人が私を仏前に座らせ、念仏・お経に出遇わせてくださり、この命の在り方、尊さを教えてくださるのです。
「そこに早く目覚めてください」と阿弥陀さまも亡くなった先人も姿や形は見えないけれど、間違いなく私たち一人ひとりにはたらきかけて下さっておられます。

